妻の病気とマラソンでうまくいかない怒りと共同体感覚。

妻が 39度の熱を出し、寝込んでいます。今日は4日目。

徐々にはよくなっていますが、まだ、微熱がある状態です。病院に行ったところ、ウイルス性胃腸炎でした。

病気のため、妻と子どもは極力、隔離しておかないといけません。
そのため、基本的には、私が子どもを見て、あやす必要があります。

子どもをバウンサーにのせて、左足でゆらしながら、仕事をしていたり。

ただ、それも、すぐに飽きてしまうので、仕事ははかどりません。

そのような時に限って、子どもがお風呂上がり、急に全身がミミズ腫れのようになり、今までそのような事がなかったので、夜だったので、救急病院に行ったり。

結局、何ともなかったので、よかったのですが。

私は10月1日からアタカマ砂漠を走ります。
最後の調整のため、トレイルランに出場予定でしたが、取りやめました。

ずっと、前から、準備していたこともあって、もう残念で残念でしょうがありません。

つい、家族のためにしょうがないなと、思いつつ、8月に入って、トレーニングが思うようにできていない現実に、怒りを感じたり。

「しょうがないよね」と思うと同時に、走る時間や仕事の時間が取られ「なぜ、こんなにうまくいかないのか」と自問自答したり。非常に、もやもやしてます。

大体、うまくいかない事があると、アドラーの書籍を読んだりします。

幸せになる勇気の中に人生の「主語」を切り替えよという、章があります。
一部を拾いながら、引用していくと

「幸福とは貢献感である。」われわれはみな、「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときだけ、自らの価値を実感することができる。

ただ、貢献感は目の前の人が喜んでいても、本当に喜んでいるのかわからない。

そこで、わたしは誰かの役に立っているという主観的な感覚があれば、それでいいと。

「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして、「わたしたち」を掲げる。人生のすべての順序を貫く。

本当の愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は「わたしたち」に変わります。
幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。

愛の関係に待ち受けるのは、楽しいことばかりではありません。引き受けなければならない責任は大きく、つらいこと、予期しえぬ苦難もあるでしょう。それでも、なお、愛することができるか。どんな困難に襲われようとこの人を愛し、ともに歩むのだという決意を持っているか。

結婚して、子どもが生まれ、どれだけ、困難なのか、わかった気がします。ずっと、主語が「わたし」である限り、この困難な事からは逃れられないなと。

だからこそ、ずっともやもやしていたのだと思います。

私自身まだまだ、未熟だなと。

もし、仮に、妻と子どもと別れ、この問題から逃げたとしても、直感的にまた、この問題が私の前に降ってくる気がします。

そうであるなら、立ち向かわないといけないなと。宇宙で一番かわいい子どもと女神様を手放すつもりは全くないですけどね。

主語がわたしから変えることができたら、仕事の時間が減っても、プライベートや走る時間が減っても、家族(私達)が結果的に幸せになるのであれば、私も妻も子どもも幸せに過ごしていけます。

「愛する」って意外と難しいなと。

もし、妻と子どもがいなければ、このような問題があることすら、知らなかったのだろうなと思います。感謝しなくては。

最近は、ひとまず、子どもも妻も元気であれば、それでもう、十分幸せな気もしています。

発熱はしていないけれど、妻よりもトイレに駆け込んでいる自分、大丈夫なのか。。。

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